忙しかったんで。
– 金を稼ぎたくない。
– 他人よりも稼ぎたくない。
– 人権を盾に、他人の努力に寄生したい。
– 成功した他人の努力には価値などなく、全て汚い手なのだから、その上前をはねるのは当然だ。
お金を稼ぐことが人生のすべてなら、開発者は皆お金持ちになる事を考えてたの?
答えてね。逃げるという事は卑怯なわけだから。
日本の人権は世界から見劣りします。
教育機会も公平でないし、何より福島の被災者なんて今見てもプレハブ。どこが人権保護されてんの?カビまで生えているのに。彼らは被害者ですよ。
成功した人とか言っているけど、汚い手を使ってそれが努力とか考えている人間の方がはるかに終わっている。まともな競争原理がないからこそ、教育格差だって問題になる。
奨学金制度なんてあるのは、金を借りる人と借りない人を平等だなんて考えるからおかしい。
ならみんなお金を借りて教育受ければいいし、義務教育からそれをすればいい。
憲法89条に関わると考えるならそうすればいい。
憲法23条による学問保障は金持ちのみと明記しろ
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>答えてね。逃げるという事は卑怯なわけだから。
答えるのは構わないが、もう少し理知的・論理的な内容と、客観的な根拠を示して欲しいね。
(1) 「金を稼ぐ」ことの2つの段階
>お金を稼ぐことが人生のすべてなら、開発者は皆お金持ちになる事を考えてたの?
全ての人間は、どこかの段階で人間である最低限の目標として自立することが求められる。
最低限、自立した生活しできるレベルで「金を稼ぎ」、社会を支える構成員の一員となることは、日本に限らずどの国でもどの社会でも求められるミニマムレベル。
金を稼げるようになって自立するのは、社会の構成員として通常求められる「義務」。
日本国憲法第二十七条に、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」と明記されている通り。
だから「金を稼ぐ」という一つの言葉には異なるレベルの話がある。
第一段階 → 自立できる社会の構成員になるレベルで金を稼げるようになる ; すべてのまともな社会人が目指す
第二段階 → 自分の能力を磨くことで、「経済的な成功」を得たい ; それぞれの人の価値観による
両者を、一緒にして単純化するのは、そもそも議論として幼稚でナンセンス。
第一段階は、開発者に限らずすべての人に求められ、またすべての人が達成すべき最低限の目標。
「開発者」である以前に、自立した社会人であることが前提だから、そのレベルが達成できずに夢だけを見ていて自活すらできない人は、まともな社会人にはいない。
要求1 → この第一段階のレベルさえ、社会として求められていない純共産主義社会の実現国があると思うなら、具体的に示してもらいたい。
(2) 能力の不平等に対する前提
次に、その最低レベルを満たした上で、どこまでの自己実現を求めるかは、各人の判断やビジョンによる。
第一段階をクリアした後の第二段階については、初めて「開発者」として「文明の発展」や「社会の改善」や「個人的な成功」等、それぞれの人毎に異なる夢やビジョンに基づき、自分の能力を高め、自分にできる範囲内で社会に貢献したいと考える。
ただし、人間にはそもそも能力差がある。時間やコストをかければ、誰でも高度な「開発者」になれるわけではない。
そもそも人間の能力は生来不平等であることは、どのような文明でも明確に認識され共有されている。
例えば、アングロサクソン系の社会では、能力で明確に選別されているが、勉強を除いた時に得られる機会だけは確保されている。
– 本当に「能力が高い人材」が高等教育を望んだ場合、社会が高等教育を施すべきだと考えられる人材に対しては無償の奨学金による教育機会が与えられる。
– 「一般的又はそれ以下の能力しかない人材」が自分の意志で高等教育を望んだ場合、将来自立してから返済することを前提として有償の奨学金借入れにより、高等教育を受ける機会が与えられる。
→ ただし、親に頼るのではなく卒業後に自立して返済することが前提。
ただし、日本の甘えた学生は、高等教育の学費も全て親にたかるのが当たり前だと勘違いしているが、アメリカ・オーストラリア・イギリスなどの個人主義的社会では、子供が自分で負担することを当然とした体形になっている。
アメリカの大学では「社会で高度な付加価値を生むために十分な能力」を身に着けることが重視されるため、学業は厳しい。この結果、アメリカの大学の卒業率(4年生大学を6年以内に卒業できた比率)は61%しかない。
よって、卒業さえできず借金だけを抱えた転落人生を送るかどうかは、「経済的リスクをとって高等教育を受ける」か「自分の能力を適正に評価・判断し、自分に合った職業訓練を受ける」か、という学生自身の判断に任される。
アメリカで私立大学に進学すると2000万円近い借金(奨学金)を抱えて社会に出ることになる。
これは大変な返済負担となる。だからこそ、自分の能力や付加価値を適正に見定め、それだけのコストをかけても進学するに値する能力があるかどうかを含め、自分に対する自己責任が求められるのが、アングロサクソン系の社会。
当然、失敗した場合のリスクも自分で抱えることとなる。
要求2 → 人間の能力は生来不平等であることが否定され、だれでも結果平等を達成できると考えられている国があると思うなら、具体的に示してもらいたい。
(3) 日本の事例
日本国憲法第二十五条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する 」とされているが、これを達成するために最低限必要な社会へのアクセスを確保できるために、無償で提供されるのが現在の普通教育(義務教育課程)。だから、入り口についての平等は達成されている。
しかし、その上の段階の高等教育を求めるかどうかは、本来あくまで個人の判断による。
どのような方法でどこまで学ぶかは個人の自由だからだ。
ただし、社会が無償で高等教育までサポートするとは、憲法にも書いていない。
日本国憲法第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
「その能力に応じて」とあるように、真に高等教育にふさわしい人材に対しては、無償の教育機会が与えられている。
大学には授業料免除規定もあれば、多くの財団などが提供する返済不要奨学金もある。
ただし、誰でも得られるわけではない。能力が高いことを証明するために、選抜なども行われる。
人より優れた能力を持つ学生が、試験の結果、能力に劣る学生を蹴落として無償奨学金を得ることは、「汚い手」ではない。まともな能力と努力。これを否定したら、すべての文明社会は成り立たない。
なお、
日本国憲法第二十三条 学問の自由は、これを保障する。
については、上記のアングロサクソンの場合と同様、国が無償支援するほどの能力はないが、リスクを取ってリターンを求める学生に対しては、学問をできる自由は日本でも明確に与えられている 。(今、手元に金がないから進学できない、ということはない)
ただし、ここを勘違いして、単に「自己実現」とかで何の付加価値も生まない自己満足のマスターベーション的な進学をして、社会からの対価を得られるだけの能力を得られない者もいる。
自分を実態以上に過大視する前に自分を適切に評価するのが他国のやり方。
例えば、ドイツなどでは義務教育課程を過ぎた段階で、学生は高等教育を選ぶか、マイスター(職業プロフェッショナル)を選ぶかの選択をすることになる。
日本に限らず、能力不足にも関わらず進学前に自分を適切に評価できることができず、付加価値を生むまで自分を育成できず、学問を付加価値に転嫁できない場合のリスクは、学生本人がとることになる。
要求3 → 日本において、金持ちの子供以外がそもそも国公立大学などの公的教育機関に入学できる可能性が規定などにより一切排除されている事例があると考えるなら、そのような事例を具体的に示してもらいたい。
(4) その他
>まともな競争原理がないからこそ、教育格差だって問題になる。
競争原理があるから、その前提として能力格差が存在する。
能力格差がある場合に、能力の不足した不満だけの人間に公的資本を投下することは、逆に他の公的サービスを阻害する。その点で、有限である公的社会のサービスを阻害する。
だから、そういう能力の不足する人間には、自分で将来の道を選択できるよう「有償の奨学金制度」という機会が与えられる。
何も汚いことなどない。
能力が不足しているなら、自分の能力でできる社会参加を選ぶべきだろう。
>奨学金制度なんてあるのは、金を借りる人と借りない人を平等だなんて考えるからおかしい。
高等教育を受ける権利が「平等」だなどと考えるからおかしい。
中卒・高卒で職人的なプロフェッショナルの道を選び、その道で生計を立て成功している人間は、不平等なのか?
そうではない。
社会の入り口として平等に与えられる義務教育を経た後は、自分の能力に合った道を自分で見つけるしかない。
もし、君が真に社会として高等教育を与え育てないと、社会的な損失だと思えるだけの能力を持っているのなら、必要な機会は必ず与えられているはずだ。
そうでないのなら、最低限社会の参加者として自立して、社会コストを負担できるようになるために、どのような努力をすることが最短の道かを考えるべきだろう。
自分の親もその両親が火事で焼け出されて、奨学金で借金を背負って大学に行った。
全うに勉強し、全うに社会に貢献し、奨学金を返済しながら苦労して自分たちを育てたが、社会的には成功した方だろう。当然、奨学金の負担をうらむのではなく、むしろ今の自分を生かしてくれた社会に恩を返したいと語っていた。
奨学金を借りる借りないに関わらず、きちんと社会貢献できるだけの勉強をして、社会に返せる付加価値をつけられるだけの能力を育てて、社会に貢献して成功していれば、なんら恥じることなどない。
それを「汚い手」などというのは、能力不足・努力不足・知識不足の甘えた人間の泣き言。
まず、自分自身の価値を客観的に評価してみることから始めた方がいい。
◆論点をそらしている。
>裏返すと、あなたの言う自民党崇拝者でない人の特徴は、
決め付けてきたのはあなたですよ。
何の理由もなしに。
第一段階の話しね。自立の話しと他人を蹴落としたり、人権を蹂躙していい理由にはならならないの。憲法論を持ち出すなら、職業安定法も守らんでうその求人内容を書き綴っている時点で人権侵害だ。資本主義で日本はやっているのだから、共産主義が云々は関係がない。
>アングロサクソン系の社会では
それと同時にライン型も存在しますね。
>ただし、日本の甘えた学生は、高等教育の学費も全て親にたかるのが当たり前だと勘違いしているが
間違ってますよ。米国の事で言えば、学校の先生が学期中に退社してしまったり、卒業後に多額の借金を抱えて破産してしまう学生が後をたたない。それが大きな社会問題化している。
イギリスにしてもそう。近年フィンランドの教育機会を導入し、文房具なども国が用意する事になってます。